山田

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山田

所在地

鹿児島県姶良市下名→山田の地図

感想(レビュー)、見所

鹿児島県の山田といえばかかしと凱旋門ですね。

戦争の歴史も刻まれています。

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国登録文化財 山田の凱旋門
(以下、看板より転記)
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この凱旋門は明治三十七・八年の日露戦争に当時の山田村から従軍した
人たちの無事な帰還を記念して明治三十九年(一九〇六)三月に山田村
兵事会が建設したものです。
『山田村郷土誌』によれば、山田村からの従軍者は、陸軍八八名・海軍
二五名、計一一三名であったと記してあります。
石造りの凱旋門は、鹿児島が誇るアーチ式の石橋技術を応用したものであり、
全国的にも大変珍しいものです。
使われた石材は凝灰岩であり、言い伝えによると、上名の池平から切り
出したといいます。
昔は各地で石垣用に使われていました。
石工は細山田ケサグマという人だったそうです。
○構造 石造・高さ4.7メートル、幅4.9メートル
凱旋門上部はアーチ型に組まれ、中央にタテ60センチ、
ヨコ121センチの石がはめ込まれており次の文字が刻まれています。
「凱旋門(横書き・行書)
明治三十九年三月
陸軍中将正五位
勲二等功四級 大久保利貞□□(絡款)」
西側の門柱には、(右)「明治七八年日露戦役記念、」(左)明治三十九年
建設山田村兵事会」と筆力のこもった見事な楷書体で刻まれています。
『鹿児島市史』によれば、「県は熊本・宮崎・沖縄三県と連合して
鹿児島のいずろ通広馬場角に凱旋門を建設し、一月に竣工、三月十二日
より十五日にかけて部隊の凱旋を迎えた」とあります。
(いずろ通の凱旋門は現存せず。)
恐らく山田の凱旋門も三月十二日以前に完成し、山田村の従軍者たちは、
実際にこの門をくぐり、凱旋祝いを受けたと想像されます。
日露戦争の終結後、全国各地で記念祝賀会や凱旋式が盛大に行われました。
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日露戦争
(以下、看板より転記)
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日露戦争への道

中国東北部や朝鮮における権益をめぐり、日本はロシアの脅威を
感じていましたので、一九〇二年日英同盟が締結されました。
ロシアが朝鮮に軍事基地をつくり始めると、日本国内では、
三国干渉への反発や国権の拡張を求める主戦論が高まってきました。

日露戦争の開始

一九〇四年二月、明治政府は宣戦布告をし、戦争が始まりました。
この戦争は翌年にかけて清(当時の中国の国名)の領土である満州
を中心に戦われ、旅順や奉天では両国軍とも数万の死傷者を出す
激しい戦闘が行われました。
日本は百万人をこす兵力を動員しました。

東郷平八郎と日本海海戦

東郷平八郎の指揮する連合艦隊は、朝鮮南部の鎮海湾に待機し、
明治三十八年五月二十七日早朝に出動。
ロシアのバルチック艦隊と沖ノ島付近で遭遇し午後二時すぎから
翌日にかけて数回の戦闘が行われました。
領国艦隊の兵力はほぼ互角でしたが、日本艦隊は砲力速力・練度に
勝り、圧倒的勝利を収めました。
ロシア艦隊は三十八隻中十九隻沈没五隻捕獲一隻抑留、残り
十二隻は逃走しました。
これに対して、日本は水雷艇三隻を失ったにすぎませんでした。
この結果、ロシアは軍事的勝利の望みを失い、講和への道が開かれました。

海軍大将日高荘之丞(一八四九~一九三二)

凱旋門の奥左手には、荘之丞の記念碑があります。
荘之丞は山田郷宮内家の次男として、嘉永元年に生まれ、
のち鹿児島城下堅馬場の日高家へ養子に迎えられました。
荘之丞の母は山田郷の出身でした。
明治三十五年(一九〇二)に常備艦隊司令長官に転任しました。
この更迭人事は当時の海軍大臣山本権兵衛が行ったもので、
後任に東郷平八郎を起用して連合艦隊を組織しました。
階段を上ると、山田麓の家並みを一望できます。
さらに、左手の狭い階段を登りきると、山田の招魂社があり、
裏手には、西南戦争以来の各戦役の記念碑が建立されています。
平成二十三年一月 姶良市教育委員会建立
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